遊子水荷浦の段畑

石塚裕子

 仕事のついでに、少し足を延ばして各地域の名所に訪れる機会は多い。偶然に出会った場所は、再度ゆっくり訪れたいと思わせる場所とそうではない場所がある。また、なんとなく印象に残り、何度も思い出す場所がある。その一例として、2014年9月に訪れた愛媛県宇和島市三浦半島にある「遊子水荷浦の段畑」を紹介したいと思う。

 遊子水荷浦の段畑(名称のとおり田ではなく、畑である。)は、平成19年7月に「国の重要文化的景観」(第3号)に選定されている。松山空港から松山自動車道を利用し、約1時間30分で宇和島市街地に到着する。「遊子水荷浦の段畑」は、市街地からさらに30分程度いったところにある。

 漁港への入り口が段畑への入り口である。段畑が見えてくると一瞬、言葉を失った。まるで禿山のようである。麓に休憩処と案内所を兼ねた段畑を管理しているNPO事務所があり、車を停めて降り立った。見上げると斜面が迫ってくるほどの急こう配である。こう配は35度もあるとか。見学者用に整備された階段と通路を通って、段畑を上へ上へと登る。1枚1枚の畑の狭さ、石積みの高さ、数の多さに驚く。作物運搬用のカートが整備されているものの、ここでの農作業の大変さ、非効率さは想像に難くない。頂上まで登ると集落の墓地があり、段畑と集落そして漁港を見下ろしている。なぜ一番上に墓があるのだろうかと疑問に思った。

 案内所に立ち寄った際に「段畑からのことづて」(宮本春樹:著)という本を購入した。本書から引用して、段畑の成り立ち、集落の人々の生活について紹介したい。

 水荷浦はイワシ魚群がよく回遊してくるという条件で成立した集落で、平地がほとんどなかったため埋め立てによって造成された集落である。しかし、不漁期もあり漁業だけでは食べていけないので、農業をたより、海岸林を伐採して材木として売り、残地を段々畑として開発していった。

 この地では「そらへいく」とは、この地の方言で「どこそこの上に行く」という意味であるが、海で働き終えると、そら(段々畑)へあがる。そして生を終えると天に昇る。 ということで段畑の一番上に墓地が設置されているのである。段畑の入り口の石碑には『親父が砕り、童も運び、爺は築く、昼飯の芋に、母の温もり』とある。

 “親父が段畑で働き、子が海で働き、孫が一人前として働き手に加わった家”をここらの方言で「ノダツ」というそうである。先祖代々、家族一丸となって畑を開墾し、耕し、守り続け、それがこの地に生きる誇りとなっていたことがわかった。これらの背景を踏まえて、もう一度、段畑を眺めれば、集落の人々の誇りや家族の絆を感じることができるのであろう。

 半農半漁の生業の景観が重要文化的景観の選定理由であるが、農業としての段畑の使命は終えているといえよう。しかし、先祖が血と汗で創った段畑の景観は、この地の資産となった。畑のオーナー制度やこの畑でとれた芋でつくった焼酎のブランド化など、人と段畑との新しい共生が始まっている。今後もこの段畑が、地域資産として後世へ引き継がれていくことを願うとともに、それをゆるやかに支援する訪問者の景観の見方について考えていきたい。

※引用文献:宮本春樹(2006)段畑とイワシからのことづて(上)段畑からのことづて


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